ごあいさつ
当寺院のホームページをご覧いただき、ありがとうございます。
私たちの寺院は「浄土真宗本願寺派」です。「お西さん」とも呼ばれます。
当寺院では、仏教の教えをもとに、その教えにとどまらず、
皆様が日々の生活の中で心の安らぎと豊かさを見いだすことを願っています。
仏教に初めて触れる方や、宗教や宗派の違いに戸惑ったり迷われたりする方、また、心の拠り所となるお寺をお探しの方にも、安心して訪れていただける場所でありたいと願っています。
このサイトでは、当寺院の歴史や活動、浄土真宗の教えについて、少しでも分かりやすくご紹介できればと思っております。どうぞ、ごゆっくりご覧ください。
皆様お一人おひとりが、心の安らぎと豊かさにあふれる日々を過ごされますよう、
心から念じております。
明誓寺の歴史
450年の歴史を誇る明誓寺。信越の戦乱を乗り越えた八人の誓いが刻む、静かな安らぎの空間へ。
明誓寺先祖と寺の命名の由来
当寺ご先祖の田子氏はもともと、信州長野の城主だったそうです。ところが、永禄元年九月二十八日(一五五八年、今から四百五十年前)のこと、長野県田子村の城主の子ら六人が信越戦乱の際に越後に落ち延び、越後曽根村剣帯(現在の新潟市西蒲区見帯)の地にたどり着きました。そして、そこで渡邊宅エ門という方を訪ねました。その方の口添えもあり、村人たちの賛同を得て、ここに落ち着くことになりました。その六人とは以下の通りです:
田子八郎右エ門源明忠(二十四歳)
髙井嘉右衛門之正武利(二十六歳)
青木太郎光信(二十歳)
椎谷徳右エ門直行(二十九歳)
児玉與左衛門為勝(二十八歳)
酒井左馬之助幸宗(二十歳)
彼らは最初、同居して今後の計画を立てました。その際、まず「寺を建立したい」という誓いを立てました。伝えられるところによると、一同は協議して、「多数の戦死者や親兄弟、一族の亡き方々のため、また伝道教化のために誰か一人が僧侶となり、一同が協力して寺の建立を図ろう」と誓ったのです。しかし、僧侶になろうという希望者は誰もおらず、相談の結果、各自の手拭いを川に流し、一番早く沈んだ人が僧侶になるという約束をしました。実際に実行した結果、田子氏(当寺のご先祖)の手拭いが一番早く沈んだため、田子氏が僧侶となることになったという愉快な話が残されています。
一同は約束通り、各自の住所や家族が定まらない中、まず寺の建立に取り掛かり、村人や地方の方々の協力を得て、約二年半で寺を建立しました。寺の名称は田子の苗字を取り「太子山(たいしざん)」とし、初代住職の田子八郎右エ門源明忠の「明」を取り、皆の誓いで寺が建立できたとの意を込め、「太子山明誓寺(たいしざんみょうせいじ)」と名付けました。明誓寺の落成は永禄三年四月(一五六〇年)に新築竣工し、入仏式は永禄四年七月十四日(一五六一年)に行われました。この日、近郷近在より数百人の参詣者が訪れたと伝えられています。
寺の建立と入仏式が終わり、それぞれの住まいの段取りとなり、田子、椎谷、髙井の三氏は西川の東側見帯の地に、青木、児玉、酒井の三氏は西川の西側にそれぞれ小屋を作り、家族を迎えました。その後、長野県田子の里からさらに同志が二人来訪しました。大竹與左エ門(現、多賀與左エ門)と小竹長治エ門の二氏であり、彼らを迎え入れ、兄弟の契りを結びました。このようにして、六人の義兄弟が八人となり、「お寺を建立したい」という誓いは次第に発展していきました。
今も寺の本堂正面に残る「太子山 明誓寺」
当寺の起源とそれからの流れ
当寺は、善性(下総飯沼)の法系を引く信濃の磯部勝願寺系の大岩山普願寺を手次寺として寺基を確立しました。開基祐玄師は、もともと信州上水内郡若槻村拍木山林に城館を構え、多胡氏を称していました(現長野市田子の田子神社から百メートルの水田がその跡地です)。信越戦乱の際に他の七氏と共に越後に逃れ、越後曽根村剣帯の現地に一寺を建立しました。彼は太子氏を称し、寺号公称と共に太子山明誓寺と号し、田子姓を名乗りました。他の七氏(近江山の青木、曽根の大竹、曲通木滑の児玉、鱸郷屋の髙井、大友の椎谷、大関の小竹、柿島の永井の各氏)は、周辺の草分けとなり、当寺を護持しました。
初代住職の田子氏は剃髪して初代住職・祐玄と名乗り、布教活動を強化し、仏教文化教養の向上に尽力しました。七名の同志の協力もあり、門信徒も次第に賑わっていきました。二代目の了玄師は、慶長十一年(一六〇六年)に京都の西本願寺よりご本尊・阿弥陀如来像、御開山・親鸞聖人御絵像、御裏などを受け取り、明誓寺としてのお寺の形を整えました。九代目の了祐師の時には、御真影、御影像を受けました。
寛政三年(一七九一年)に子孫が集まり、先祖の百九十年忌に廟塔を建立しました。明誓寺の常例布教・伝道教化の一つとして、毎月「二」と「七」がつく日(二日、七日、十二日、十七日、二十二日、二十七日)を勤修日とし、参詣者は毎回数百人と多く、寺内に入りきれず笠をかぶって参詣するほどだったといいます。また、「二」と「七」の常例布教の日には、参詣者が多数のため、寺の近くでは露天商が軒を並べ、近隣村民や参詣者などの買い物客で賑わいました。
本堂の再建
昭和三十六年六月、第二室戸台風が新潟を直撃しました。風速四十五メートルの台風に本堂は耐えられず、前方に傾いてしまいました。修復を試みるも、新潟県警より「危険のため集会などは行ってはならない」という通告を受けました。ここで、当時第二十二代住職の了尚師の古い友人であり、明誓寺門信徒である高井嘉右衛門氏の協力が窮地を脱することとなりました。ちょうどその頃、本願寺北海道教区の札幌別院が地方に移転するとの通達があり、これを聞いた了尚師は本願寺に参上し、この地に札幌別院の建物を移転することをお願いしました。
昭和三十七年四月より、本堂の移転のための準備が進められました。まず、昭和三十七年五月頃から高井嘉右衛門氏の関係者である大工や工事関係者、計二十八名が札幌に行き、約六ヶ月かけて別院の本堂を解体しました。次に、ダンプで札幌から小樽港へ、小樽港から新潟港へ、そして新潟港からこの地へと、約二ヶ月かけて移転しました。工事関係者二十八名が寺に泊まり、約十ヶ月の工事を経て本堂が完成しました。その期間中、約五十名近い門信徒の方々の協力もありました。高井嘉右衛門氏は、これらすべての面、また経済面において多大な尽力をされました。その甲斐あって、昭和三十八年には本堂が完成しました。
本堂の中に御本尊様も安置することが出来た。
北海道札幌別院の工事現場にて
明誓寺の歴代住職
ギャラリー
寺院概要・アクセス
名称 | 浄土真宗本願寺派 太子山 明誓寺 |
住職 | 田子 明海 |
所在地 | 〒959-0422 新潟県新潟市西蒲区曽根829 |
TEL・FAX | TEL:0256-88-3080 FAX:0256-88-5542 |
開門時間 | 午前9時~午後5時 |
アクセス | 【電車をご利用の方】 越後曽根駅より徒歩15分 【お車でお越しの方】 巻潟東インターより車で20分 |
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